麻雀と読書生活と

日本プロ麻雀協会のD2リーガーのブログ

久々の更新。ライトノベルと麻雀のお話でも -人の可能性、AIの可能性-

 

 一カ月ぶりくらいの投稿になります。

 実生活がいろいろとバタバタしていたという言い訳で、どうぞご容赦ください。

 始めたての頃は、一日一回更新するぞー、なんて息巻いていたものの、気が付けば、一か月の空白です。ひらに、ひらにご容赦をば。

 さて、一か月ただただ忙殺されていたという訳ではなく、合間を縫ってちょこちょこ、本を読んだり、麻雀を打ったりしていた訳ですが、その中で、今回ちょっとお話したいものがひとつ。

 

 支倉凍砂先生原作、「WORLD END ECONOMiCA」という物語。

 

 

WORLD END ECONOMiCA (1) (電撃文庫)
 

 

 

 支倉凍砂先生といえば、知る人ぞ知る、「狼と香辛料」や「マグダラで眠れ」などを書かれた、電撃文庫の作家さんで、僕が大ファンでもあります。

 そんな支倉先生が、同人サークル「Spicy Tails」で制作された同人ゲームを、電撃文庫レーベルで書籍化した作品です。

 どんな話なのかとちらっとご紹介すると、

 

 いまよりもずっと先進的な時代において、人類はついに月に定住することを可能とし、いまや月面といえば、世界経済の最前線、と言われるほどにまで至った世界。

 月では、金融取引を通じて地球の資本を吸い上げ、それを元手に更なる発展を続けている……という物語の導入部分があり、

 そして主人公は、そんな月面において株式取引により巨万の富を得ようと奮起した少年ハル

 家出を決行し、しかしほどなくして居場所を失い、行きついた先は、月面においては希少なカトリック教会。そこで、寝食を確保し、再び投資の世界に舞い戻る。

 ……が、どうにも行き詰まりを感じ始めた頃、同じ教会に住み着くハガナという少女と出会う。実はその少女、天才的な数学者で、彼女の知恵を借り、なんとか行き詰まりを打破しようとするのだが……。

 

 という感じのあらすじです。

 

 

 

 端的にコンセプトだけ抽出すれば、株式投資にフォーカスした、少年と少女の出会い、成長の物語。

 さて、その作中で、面白いやり取りがありました。

 それは、「機械、プログラムの限界点と人の可能性」という話。

 

 何事かと言いますと、大勢の投資家が参入する株式市場において、儲けを得るために必要なものはなにか、という問い。

 ひとつは、いまも大勢の投資家たちが行っているように、数式というプログラムに基づいて、薄利を積み重ねていく方法。

 作中でも、自身の投資スタイルに疑問を感じ始めた主人公ハルは、天才数学少女ハガナの助力を元に、株式取引にまつわるツールを操り、確実な、損をしない取引をコツコツと続けていました。

 しかしある時、とある大手の投資家の出会い、その考えを否定されます。

 曰く、「数学は合理には滅法強いが、非合理にはまったく歯が立たない。そして、株式取引は人と人とが行うもので、人は得てして不合理だ」(*1)

 翻って、プログラムに忠実に基づいた投資は、確かになかなか損をすることはないが、例えば、予期しない暴落の際には痛手をこうむることになるし、高騰した時には、手遅れになる、ということ。

 当たり前といえば当たり前の話。しかし案外、誰しもが陥る罠であり、一度ハマってしまえば、なかなか抜け出せない蜜壷でもあります。

 確かに、超長期的に見た場合、それこそ無限にわたる試行回数があった場合は、当然プログラムに軍配が上がります。とはいえ、それもそのプログラムが「完全無欠」であった場合に限るでしょうし、そんな超長期的なスパンというのは、ひどく非現実的です。

 

 そしてここで、ちょっと麻雀の話にスケーリングしてみます。

 麻雀においても、最近は優れたAIプログラムが登場しているようで、寡聞にして僕は詳しいことは知らないのですが、どうやらなかなかの成績を上げている様子。けれど、それはあくまでネット上でのお話。

 断っておきますが、僕はネット上での麻雀対局を馬鹿にしていたり、見下している訳では決してなく、ただただ情報量が少なすぎる、という点をのみ、少し言及したいと思います。

 麻雀というのは、オセロや将棋などの二人零和有限確定完全情報ゲーム(*2)ではなく、そもそも四人ないし三人のプレイヤーで行い、その上、見えていない情報というものが多すぎるゲームです。

 そんな中、ネット麻雀では、自分の手牌と四人分の河、それから他人が晒した際の副露面子くらいしか見えるものがありません。

 しかし、実際麻雀を打っているのは、こっちが人であれば向こうも人です。本来ならば、もっと情報量があってもいいはず。

 例えば、上家が切った牌の種類によってわずかにツモるまでの時間が違ったり、リーチの発声がふだんよりも甲高かったり、聴牌が入ると打牌が強くなったり……などなど、たくさんの情報が溢れています。

 人と人とが相対してするゲームにおいて、これらの情報は、果たして完全に無視してもよいものでしょうか。

 むしろ、僕は、それらの生の情報こそが、麻雀を打つ醍醐味とすら感じています。

 理牌の癖と手出しと河から相手の手牌を推測するのも楽しいですし、そこから山に残っている牌の種類や枚数を類推するのも、また面白い。

 それらを統合して、ふつうではありえない手順を踏んで和了をキめた時など、絶頂すら覚えます。

 

 さて、長々となりましたが、なにを言いたいのかとまとめますと、麻雀は、ただただ数字と絵柄を合わせるだけのゲームじゃない、卓上に落ちているものだけがすべてじゃない、と言いたい訳です。

 ですから、AIも、例えば外の世界を知見できるようになったとして、そこから個人の癖や感情、精神状態すらも見抜いた先には、きっと人間をはるかに超える麻雀マシーンが生まれるのではないかしらと愚考します。

 ざっくばらんな、乱暴な言い方をしますと、寺山修司の評論のタイトルを借りて、「書を捨てよ、町へ出よう」という訳です。対人ゲームなのだから、やはり、人と人とがコミュニティを交わらせながらするのが、本道かと。

 

 

 ところで、僕はこの、WORLD END ECONOMiCAをまだ一巻までしか読んでいないのですが、読了した後、たまらず地団太を踏みました。なんてものを書いてくれたんだ、支倉先生は! と万雷の拍手と共に讃えました。

 どういうことか気になる方は、ぜひ一度、読んでみてください。

 

 以上。